₋切迫流産-
妻のうつ病は、その時に扉が開いた
私は、そう思っています。
当時の妻の職場は、私達が住んでいたアパートからは高速を使わないと通勤できない遠地にありました。
しかも、妻は車の運転が得意でないうえ、体力もある方ではありません。
会社の組織改革にともない、勤務先は短期間で異動させられ業務内容も大きく変動。
ストレスが増していったのでしょう。
それが引き金だったのか…

先に申し上げます。
私は医師ではありません。
この記事は、妻のうつ病の様子や生活状況を、そのまま紹介していく記事です。
この記事を書いている、やま太郎といいます。
私の妻はうつ病です。
先にも申しましたとおり、私は医師ではありません。
従って、妻のうつ病の理由・原因や治療法、対処法をこの記事では紹介しません。
この記事が、うつ病と闘う方、その家族、友人、知人、同僚、専門家、研究者etc…の方々の参考になれば幸いです。
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【妻がうつ病】第一子の懐妊
不妊治療?
妊娠を治療するの?
不妊治療のため有給を申請した上司から言われました。
今は珍しい治療ではないのに…そう思いましたが、育休などの言葉がない時代。
少し疎まれながら休暇をとり、不妊治療を開始しました。
その当時の私の職場は、残業も多く自然妊娠ではなかなか子宝に恵まれないと判断した私達は、素早く不妊治療を開始していました。
せっかちな性格の妻は、知人、友人から情報をかき集め、その地域で一番実績のある病院を探し出し、私より先に治療を開始していました。
私も早く子供が欲しい。
妻から言われるがまま病院で精液などの検査を受け、ビタミン剤らしき薬を服用しながら飲酒も控え、ストレスを極限に抑えて妊活に励みました。
治療開始から1つ月‥2つ月…3つ月‥
妊活ってこんなに大変なのか…
そう思い始めていた時、妻から待望の知らせを受けます。
職場の階段踊り場から2階に上がっている途中…
「やっと妊娠した。」
私はその知らせを聞いて、階段を上る足が一瞬とまり、一気に階段を駆け上がったのを今もはっきり覚えています。
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【妻がうつ病】切迫流産で休職へ
子育てって、子供が生まれる前から始まっているんですね。
それもそのはず。
妻のお腹では長女がすでに育っていたのです。
妊娠から5ヶ月目。
懐妊の喜びから不安な時期に突入します。
妻が切迫流産の診断を受けたのです。
業務効率、合理化をすすめる職場。
組織改革にともなう人事異動。
ストレスが蓄積したのでしょう。
自宅療養ですが絶対安静。
勿論、仕事は休職となります。
しかし、休職してからは体調も安定しました。
穏やかな日々を過ごして、妻は無事に長女を出産します。
私は長女の出産に立ち会い、ビデオカメラまで回して出産の様子を記録しました。
私達にとって初めての子供。
幸せは絶頂期でした。
友人、同僚、親戚から手一杯のお祝いの品や言葉を頂き、子供の華やかな成長の道しか見えない時期でした。
百花の祝いやお宮参り、初節句は両家の親も出席してくれて楽しい思い出になりました。
それから1年と数か月経った4月の新年度。
艱難辛苦の扉が開きます。
私達夫婦は、妻のうつ病と一緒に人生を共にする道が開いたのです。
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【妻がうつ病】重なる苦難
優秀な人が挫折する理由の中に、一つだけ同じ要因があります。
₋七難八苦-
災難や苦境が一気に重なる時…
どんなに優秀な人でも挫折せざるを得ません。
それは、挫折ではなく回避と言うのが正しいのでしょうか。
私の妻は頭がよく真面目な性格です。
なんと国立大学を2つ卒業しています。
しかも、成績が優秀で学費は免除されています。
つまり努力家でもあるのです。
その優秀な妻の前に超えられない壁がそびえ立ちます。
₋子育て₋
思ってもいない事態が、一気に襲い掛かってこようとは…
疑いなど全く知らない目で私達を見つている長女が、私達を奈落の底に追い込んで行くことになます。
出口の見えないトンネルほど、不安で心配で恐怖を感じる居場所はないのです。
【妻がうつ病】保育園が見つからない
₋保育園落ちた、日本死ね₋
この言葉は、その年の流行語大賞のトップテンに選ばれたそうです。
新年度の4月。
その時期をむかえる1月、妻は職場復帰の準備に取り掛かります。
それに合わせるかのように私の異動。
3年間務めた支所から、県内中央区への異動が濃厚となっていました。
むかえた3月中旬。
私が異動確定の内示を受けます。
それから一気に忙しさが加速していきましたが、すでに準備は進めていましたので慌ただしくも、やるべき事は全て予定どおりクリアしていきます。
住宅の購入でさえ、異動内示の知らせを受けた半日後には契約を結び、引っ越しの段取りまで済ませえた程です。
ところが、一つだけ重大な問題が発生します。
長女を受け入れる保育園が見つからないのです。
【妻がうつ病】保育園に救われる
高齢者優遇社会。
この言葉、学生時代や独身時代にも聞いていた言葉ですが、当時は全く興味を示さなかった言葉です。
しかし、自分達がいざ子育てをする立場になったとき、初めて政治の在り方に疑問がわきました。
仕事をしたいのに子供を預ける場所がない。
なぜ高齢者の社会福祉は手厚いのに、子育てを支援する若者層の社会福祉は手薄なのか。
妻は慌てます
職場に職場復帰の手続きは既に済ませている。
いまさら復帰できないなんて言えない。
どうしよう…
ここで、私達両親の問題が露呈する事になります。
妻の両親は、妻が1歳の時に離婚し、父親、叔母、祖母に育てられる事になります。
父親は、頚椎損傷のため首から下がほとんど麻痺の状態で、とても子育ての援助ができる状況ではありませんでした。
私の方は両親ともいましたが、父が脳梗塞で介護が必要な状態で、母は父の介護に付きっ切りの状態でした。
しかも、両家とも遠方。
仮に、長女を出勤前に預けるにしても毎日早朝に家をでなければ遅刻してしまいます。
どうるす…。
とにかく、長女の預け先を探し続けました。
どこでもいい。
近所じゃ無理なら、隣町でもいい。
どこかないのか…。
しかし、見つからないのです。
探しても、探しても…
₋保育園落ちた、日本死ね₋
この言葉は、その時の私達にとっては他人事ではありませんでした。
そのような時、一通の電話を妻が受けます。
「引っ越しに伴い、1人だけ受け入れ可能です。」
天にも昇る気持ちとは、この事だと思いました。
偶然にも、4月の異動で地方へ異動された方がおられたらしく、入園をキャンセルされたとの事でした。
しかも、その保育園は入園後に知る事になるのですが、園長の保育に対する熱意が灼熱のごとく熱い保育園でした。
その噂は、入園の申し込み前から聞いていたことではありましたが、今でも本当にありがたい事だと思っています。
私と妻は胸をなでおろし、4月からの新しい生活に向け準備を進めていったのですが…
これが予鈴だったのです。
挫折…
苦難の重なり合い
保育園は結局のところ見つかったのです。
社会で渦巻いていた保育園問題。
保育園に子供を預けられないのが、社会が抱えていた本当の問題ではなかったのです。
高齢化社会、子育て問題、働き方改革、ハラスメント問題…
その波が一気に押し寄せてくる事の予鈴だったとは、その時の私達は知る由もありませんでした。
【妻がうつ病】保育園の送迎
年功序列の日本社会。
しんどいですね。
私は、超氷河期と言われた平成13年度に大学を卒業しました。
受けても、受けても内定がもらえず、結局、就職浪人となり、大学を卒業した後の4年間は、引っ越し兼清掃業者みたいなアルバイトの仕事を4年間続ける事になります。
その後、何とか今の会社にたどり着き、現在までお世話になっている普通のサラリーマンです。
私達の一つ上の世代というとバブル絶頂期を謳歌した世代の方々。
団魂の世代とは違います。
バブル期の世代は、団魂の世代が血と汗で築き上げた日本経済の基盤に乗っかり、ただ単に謳歌した世代です。
バブル期の世代は、とにかくわがまま…
面倒な仕事は全て下まかせ…
私が4月に異動した職場は、まさにバブル期世代が集結したパワハラ職場でした。
その時私は36歳。
36歳で私が一番の若手…
まずは私の職場が一つの苦難となったのです。
勤務開始は午前8時半。
しかし、1番歳下の私は午前7時前出勤。
清掃、準備、お茶出し…
36になってまで無駄な仕事。
妻に言われます。
子供を保育園に送ってよ…
保育園の登園は午前7時から。
午前7時前には職場に着いておかなければならない私には到底無理な話です。
勿論、バブル期世代の上司に理由を説明したところで請け合ってもらえません。
仕方なく、妻が子供を送迎する事になります。
妻の職場は福利厚生がしっかりした職場。
子育て支援の時間短縮勤務を申請し、遅出出勤をすることが可能になりました。
しかし、妻の職場は高速を使わないと通勤できない遠地。
遅出出勤になったとしても、午前5時台に起床して7時過ぎには家を出ないと遅刻していしまいます。
お互いの親に子供の送迎を甘える事ができたなら…
私が子供を送迎できたなら…
日本の子育て支援のシステムには、まだまだ潜在的な問題が潜んでいた時代でした。
【妻がうつ病】母の大病
₋強さとは何か₋
私の人生をかけたテーマでもあります。
私の母は強い。
団魂の世代。
男性中心の世界で戦い抜いてきた母。
病気なんて…風邪さえひいた事がない母。
4月から新生活がスタートして1月後の5月初旬の事です。
母が癌の宣告を受けます。
なぜ‥
しかも、このタイミングで。
何かあったら母に頼るしかない。
そう思っていました。
その母が癌…
告知から1月もしない間に手術を受ける事になります。
右肺の1葉を全摘出。
手術は無事に終わりました。
手術には私と母の実弟が立ち合いました。
術後の母と対面。
一回り小さく見えました。
それでも、少し遠くにある痛みに耐える表情で、
大丈夫よ
母は、そう返事をしました。
しかし、絶対安静が続きます。
とても子供の世話などできません。
こうして、私達の頼りの糸はプツンと音を立てて切れてしまったのです。
【妻がうつ病】保育園からの呼び出し
人間は他の哺乳類と比べて生理的に約1年早く生まれ、未熟な状態で生まれてくるという特徴があります。
この現象は「生理的早産」と呼ばれているそうです。
早産の理由は…
① 直立二足歩行をするため、骨盤幅と産道が狭いことから、脳を大きく成長させすぎてしまうと産道を通れなくなる
② 他の類人猿に比べると、人類は巨大化した脳を持っているので、この状態で無事出産するためには、赤ちゃんの脳が小さいうちに、つまり未成熟なうちに産む以外に方法がない
つまり、人間の赤ちゃんは生まれても他の哺乳類にくらべて非常に手がかかるという事です。
何とか保育園に預けることができた長女。
生まれてから保育園に預けるまで1度も病気をした事がありませんでした。
しかし、保育園に預けたとたんに病気をするようになります。
とにかく熱発が頻発。
すぐに保育園から迎えに来てほしい、との電話がなります。
対応するのは妻。
さばけていない仕事を据え置き、長女の迎えに走ります。
その繰り返し。
それを繰り返しているうちに長女が肺炎をおこします。
妻が点滴の瓶につながれた長女を抱きながら泣くのです。
ごめんね…
ちゃんと看病できないから…
妻の責任ではないのです。
1歳過ぎの子供はまだまだ免疫力が弱く、すぐに風邪をひくのです。
このような時、どちらかの両親に頼ることができたのならばいいのでですが、唯一の頼りだった私の母は癌の療養中。
全く頼ることができません。
私はというと、男の育休などが浸透していない時代。
とても子供の世話などで休みをとれる職場環境ではありませんでした。
妻に全部の負担がのしかかります。
仕事が溜まっていくだけではなく、心理的圧迫も増していきます。
それでも、妻は何とかサービス残業までして仕事をさばいていました。
しかし、ついに蓄積したストレスが妻を襲います。
無理だったのです。
24時間、子供と仕事のストレスに追われ、ダムの水が崩壊するように妻は後ろのめりに倒れていってしまうことになります。
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【妻がうつ病】メニエール病の発症
運転ができない…
目が回る
そう妻が訴えました。
梅雨が明けた7月上旬の事です。
直ぐに専門医に受診させます。
診断名はメニエール病。
メニエール病??
エルニーニョなら聞いた事があるけど…
何だ、その病気は…
初めて聞く名前でしたが、何でも耳のリンパ液が蓄積して、めまい、吐き気、耳鳴り、難聴などの症状を繰り返す病気との事でした。
要は、疲労とストレスが原因。
暫く仕事を休むことになりました。
しかし、病休中であっても子育てに休みはありません。
保育園の送迎や家事をこなしながらの休暇。
私はというと、相変わらず仕事に追われ育児や家事をほとんど手伝うことができませんでした。
独身のような休養とはいかなかったのです。
半月ほど休んだのでしょうか。
休養中も、妻は仕事の事を常に気にしていました。
早く復帰しなければ職場に迷惑がかかる
妻は、回復するのを待つ事ことなく職場復帰する事になります。
この時、うつ病の闇に転げ落ちたわけではありません。
妻は、すでにうつ病の闇の中にあったのです。
私も妻も、お互いがお互いに手を伸ばせば掴める距離にいました。
しかし、お互いがお互いに見えない足かせがあったのです。
職場復帰から数週間後、妻は完全にうつ地獄にはまります。
食事さえ摂らなくなる。
しかし、この時の私は、うつ病のトンネルに迷い込んだのは妻だけだと思っていました。
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【妻がうつ病】発症
それは、赤くて丸い形をしています。
それは、さっぱりとした甘酸っぱい香りがします。
それは、酸っぱいけど甘い味がします。
それは、噛むとシャリっという音がします。
どれは、ツルツルすべすべの感触です。
これは何でしょう
そう、リンゴですね。
人間は五感でこの世の全てを認識します。
しかし、リンゴを見たことも食べたこともない人にこの説明をしたとして、リンゴという物体をどれだけ認識させる事ができるのでしょうか。
感性の感度が高い人なら、リンゴを見たことも食べたことががなくても、リンゴという物体を自分の感性に極限に近いところで認識できるのかもしれません。
しかし、リンゴを食べた事がある人の感性を超える事はできないでしょう。
₋経験-
経験して初めて、自分の感性に認識させる事ができ、自分の感性に刻む事ができるのです。
₋うつ病の苦しさ₋
いまだに私は分かりません。
なぜなら、うつ病の経験がないから。
何がそんなにきついのか
何がそんなに苦しいのか
私には分からないのです。
その私の経験不足が、妻を一気にどん底まで追い込んで行きます。
もしかして、本当にきついのか…
そう初めて思えたとき、妻は食事も摂らず、ただ寝ているだけの生活を余技なくされる状態でした。
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【妻がうつ病】症状
トマトは水を与えないと糖度が増すそうです。
理由はストレス。
水を与えないことによりストレスが強くなり甘くなるそうです。
私は人間も同じだと思っています。
ストレスこそが人間を強くし魅力を作る。
気合と根性の人生論が私の哲学です。
そんな私でも、この段階まで来たらさすがにヤバい…っと思うストレスがあります。
それは、食事が摂れないストレス
私は極限までストレスがかかると食事ができなくなります。
これは、私が就職浪人で体験した長いトンネル内にいた時に経験した感覚です。
妻はメニエール病でしばらく休養した後、職場復帰しましたが、すぐに悪化します。
最初は過労が原因と思っていましたので、無理を避けてゆっくりした生活を送るよう努めていました。
しかし、なかなか体調が回復しない事から、病院を転々としていたとき、うつ病と診断されるのです。
そう診断されてからは、投薬治療で自宅療養となるのですが、そのうつの症状に私は理解することができませんでした。
熱があるわけでもない。
お腹がいたい訳でもない。
体のどこかが痛いわけでもない。
妻に症状を聞いても、頭が重くて、体が動かない
そう応えるだけです。
そりゃ、朝起きるのがきついのは誰でも同じ。
やりたくない子供の世話だって親がするのが当たり前。
掃除だって洗濯だって、別にしなくても生きるのに支障はない。
気持ちがないだけ
根性がないだけ
そう思っていました。
36歳の私だって、勤務時間以外に雑用をこなし、理不尽な上司の要求に応え、家族のために耐えている。
子供が泣いたらあやして、うんこを漏らしたらパンツを変えて…
嫌だけどやっているのだ
しかし、妻はうつ病とやらで休養中。
しかも、気分転換に友人とお茶をしたい、と言いだす始末…
ふざけるな
私は妻を罵倒し始めます。
家にいるのだから、家事ぐらいしろ。
子供の送迎ぐらいで愚痴を吐くな。
きついなら寝ておけ。
こっちは休日返上で仕事を押し付けられ、バブル世代の機嫌をとり、言い訳だなどせず上司の理不尽な要求に耐えている。
何故に家に帰ってまで仕事の延長が待っているんだ。
私もストレスが溜まっていきました。
₋とにかく、きついのよ₋
その時の妻は、その言葉を言うのがやっとだったのだと思います。
私に言われるまま食器を洗い洗濯物を干す。
うつむきながら子供を送迎して子供の世話をする。
その様な生活が暫く続いていたある日…
妻の足を見て、私は眉をひそめます
これは、もしかして本当に苦しいのではないか
そう、気づかされた時
妻の足は、鶴の足みたいに細くなっていました。
食事を摂っていなかったのです。
死人のように、床に吸い込まれるように横になっている妻
しかし、眠ってはいません
吸う息は短く、吐く息も短く
呼吸が停止している時間が長いのです
その時、初めて
妻が苦しんでいるのではないか…
ほんの少しだけ、私の感性が震えたのです
\ 欲しいものがきっと見つかります /
【妻がうつ病】ゆっくりとした回復
うつ地獄の底辺は永く続くことになります。
時間というものは一定の間隔をくずしません。
努力しようが能力があろうがズルをしようが…
物事の熟成には必要な時間が決まっています。
妻は時間という薬で少しづつ回復していきました。
私はというと、クモの糸の組織にあらがい、左遷させらていました。
組織に認められなかった者が最終的に身を置く場所。
私が家族を養うためには、その場所にしがみつく以外に手段はなく、社会に出てきたピヨピヨの若手に講釈を垂れながら自己を肯定していく偽りの場所でした。
それでも、このうつ地獄にも副産物があったのです。
人間万事塞翁が馬
妻のうつ病は、私の人生を良くも悪くもしたけれど、様々な扉を用意してくれた事も事実なのです。
-続-
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